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石原慎太郎は自己中

ミーイズム~Meism、自分の幸福や満足を求めるだけで他には関心を払わない考え方。
         自己中心主義。

先日の動画、”わたしの竹島ですが何か?”に出てきた言葉。
気になってたので調べてみた。

「社会全体の富の伸び悩み→生活水準の停滞→自己実現志向も膠着状態→生活水準が削られないための自己防衛」という流れとなるわけです。かくて社会よりも自分を大切にし、既得権としての豊かさを守るための要求を声高に叫ぶ、という自己防衛的な(場合によっては過剰に攻撃的な)ミーイズムが、今でも一部に頑強にはびこっているわけです。


なるほど。
自分さえよければ周りがどうなっても知りませんって考え方ですね。

先日の産経新聞の朝刊第一面にて、
現石原都知事の「日本よ~靖国再考」の記事の中で、A級戦犯分祀の記述あり。
(うp主は産経取って無いので未確認)
これについてチャンネル桜の水島総さんが異を述べておられましたので、
引用します。
リンク→zoome桜プロジェクト 平成二十年九月十一日 『石原都知事による「日本よ」コラムに対する反論』
見れない場合→youtube

靖国神社に祭られている”A級戦犯の分祀”論者である石原知事は、
かつて、靖国に詣でる際「A級戦犯は自分の頭の中で分けて参拝する」と発言された。
私(水島氏)はこれについて2005年の正論誌「なぜですか、石原さん!」にて批判。

若い頃の、石原知事と三島由紀夫さんの会話があります。
石原 「僕は僕しかいない。僕はやっぱり守るものは僕しかいないと思う。」
三島 「身を守るということは卑しい思想だよ。」
石原 「守るのじゃない、示すのだ。かけがえのない自分を時のすべてに対立させて。」
三島 「絶対、自己放棄に達しない思想というものは卑しい思想だ。」
石原 「身を守るということが?・・・。僕は違うと思う。」
三島 「そういうの僕は非常に嫌いなんだ。」
石原 「自分の存在ほど高貴なものはないじゃないですか。」
    「かけがえの無い価値だって自分しかない。」

三島 「そんなことはない。」

いわゆる靖国神社に祭られている英霊のみなさんというのは、
三島さんの場合はですね、自己放棄に達した見方がされているわけであります。
ところが、石原さんは自己こそ一番大事なものだと主張している。
A級戦犯という人達に対して彼(石原)は大東亜戦争で国民を間違った方向に導いたと、
とくに指導者の七名はそうであるというような、アメリカと同じような見方をされている
ということが明らかになったわけであります。
こういったことを問いただしますと、
弁解じみたことをお書きになり正面から(石原氏は)反論できませんでした。
どういうことかといいますと、
ご自身の自分というものが頭の中で、いわゆるA級戦犯というのを他の皆さんと分けて、
参拝しているという、こういう発言をしたわけであります。

みなさんに考えていただきたいのは。。。

たかだか、一個人です。
80年くらいの人生しか持っていない一個人がですね、
英霊を あっちはおk、こっちはノーと頭の中で分祀出来ると思っている、この傲慢さ。
これは西洋の近代主義的な自我。
こういうものを前提としていなければ、
自己は絶対的に自分があるというもの、こういうものにどっぷりと浸かった考え方を
していなければ出てこない主張である。
英霊を、あっちがおk、こっちがノーと分けられるほど
(石原氏は)立派な存在であるというのか?ということを私は指摘しました。

言っている自分が最高などと思っているのは、靖国の英霊に対する冒涜でありますし、
そんなものではない。(三島氏のいう)自己放棄を成して大義のため、
あるいは、大きな歴史の時間の中で自分の命を捧げた英霊に対する、
これはやっぱり冒涜であるし、無理解であると言わざるを得ないと思います。
まことに残念な話であります。

ただ、この中で私は近代主義批判というものが日本の保守といわれるなかにも
”出来て”いないんだなということを改めて感じました。

今の、アメリカや中共も同じようなパターンの近代主義をイデオロギーをベースに
今の国際情勢を作っている。
こういうなかで、
私たちの国の特異なことは、こういう近代主義により民主主義の影響を
受けましたけれども、それだけではないもの、長い二千年以上の歴史を
踏まえた上で、近代主義というものをなるべく受け取ってこなかった。
つまり彼ら、アメリカ、あるいは中共、ソ連、こういう近代主義国家。
こういうのはエイリアンのような異端者であったと感じざるを得ません。

今の日本の保守というものは日本共産党もこういう考え方をするものは、
根本的なものは同じである。社会党とあるいは自民党のリベラルという人達、
石原都知事の靖国神社に対する考え方、あるいは皇室についての考え方、
これもですね同じものであると指摘せざるを得ない。

この問題に関しては国の問題もありますし、根本的な国家の問題でもある、
日本人の根本問題でもある。いうときズブズブの近代主義拡大。
さすがのあの石原都知事ですら西洋近代主義の今の頚木、鎖から逃れることが
できていないということを指摘せざるを得ません。
だからこそ私から言えば、こういうミステイクを起してしまうと思うわけであります。

日本という国の大きな意味。
皇室を戴いて、二千年の歴史の中で様々な形のイデオロギー、
文化・文明、こういうものを受け入れながら、オリジナリティーを守ってきた。
私たちは誇りに思って、それを大事にしていかなければいけないと思います。


唯物論で固められたこの今の現象世界の渦中に居て、
私たちは、忘れてはならないのは、スピリチュアル、精神的なものそのものです。
目に見える”もの”が全てではないはずだ。

石原さんは 自分があってこそ日本がある。
三島さんは 日本があってこそ自分がある。
大きな違いだ。
私は三島さんのほうに付く。利己と献身とどっちが大事か言わずもがなである。
自分より大きなもの、過去からの繋がりを無視できないし、
英霊や先人・先祖を貶めることをしてはならない。
戦前の中共やソビエト、アメリカが恐れたのはこういう特異な面をもつ
日本の国だったのだろう。

高浜虚子の有名な句に「去年今年 貫く棒の 如きもの」があります。
この句に言う「棒の 如きもの」が、靖国にはあるのだと思っています。
これを無くしたり、むげにしていると、ちょうど記憶を喪失した人が自分とは何者か
分からなくなってしまうのと同じように、日本という国が、自分を見失い、
碇を無くした船さながら、漂流してしまうと思います。
(麻生太郎~靖国に弥栄(いやさか)あれ)


自分さえ良ければ・・・ このミーイズムは日本を沈没させてしまう。

Category : ミーイズム
Posted by カート茶(silvervine37) on  | 0 comments  0 trackback

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